2020.1.21
健康観の考察 ②
「健康観」において、特に1900年代後半から、核心を突いたものが多数出てきました。その中でも3つの代表的なものをご紹介します。特にアントノフスキーの「健康生成論」 は文面は少々難しい部分もありますが、健康の解釈、さらには健康改善に、大変有益な捉え方です。
以下は前回に引き続き『立命館産業社会論集』からの抜粋です。
1.マズローの健康観
2.デュボスの健康観
3.アントノフスキーの「健康生成論」
1.マズローの健康観(1951)
A.マズローは心理学の立場から、正常な健康状態について次の11の項目を明示した。
1.安心感
2.適切な自己評価
3.自発性と感情性
4.現実への対処能力
5.生理的欲求とその充足
6.十分な自己認知
7.個性の融和と一貫性
8.人生目標の保持
9.経験から学び取る能力
10.帰属集団からの受容
11.帰属集団や文化との適当な距離
これらは後に、マズローの欲求5段階説として発展した。
マズローの健康観は、身体面より心理面を重視して健康を論じたところに特徴がある。それまで主として保健医療分野でのみ論じられていた「健康」を、他の分野から広い視点で論じたという点で意義がある。
2.デュボスの健康観(1964)
フランスの医師R. デュボスは、その著『健康という幻想』の中で、「幸福と健康とは、絶対的な永続性のある価値をもちえない。生物学的な成功をおさめうるか否かは、適合性の尺度で決まる。そうして適合性をうるためには、変化しつづける環境の全体に対する、たゆまざる適応努力がいる」と述べている。
また、「健康と幸福をつくり出す仕事には,(中略)生物とその環境全体との間をつなぐ関係を理解する、一種の英知と洞察力がいる。」とも言っている。
このデュボスの健康観は、WHOが健康の定義を提唱してから約20年、それまで「健康」を絶対的価値のあるものとして追い求めてきた人々に、引導を渡したものともとらえられる。つまりデュボスの見方によれば、WHOが主張するような「完全な健康」などありえない、ということになる。
デュボスの健康観で最も注視すべきなのは、彼が新しく提示した「適合性」という概念である。
この適合性の概念は、人間が環境に適応していくことを意味している。
また環境に適応する個人的努力の必要性を示唆するものである。
加えてこの努力を支える保健医療従事者には、生物(人間)と環境との関係を理解する英知と洞察力を求め、身体的治療や処置だけでなく、環境との関係も考慮して関わることの重要性を指摘している。
3.アントノフスキー の「健康生成論」
イスラエルの社会学者アーロン・アントノフスキー(1923-1995)は、1979年に「健康生成論」(サリュートジェネシス)を唱えた。
健康生成論とは、今まで疾病や病気に向けられてきたアプローチを、健康の回復・維持・増進の観点からアプローチしようとする考え方であり、疾病が「ある原因」(病原や心理社会的ストレッサー)によって生成されるとする疾病生成論に対し、同じ条件・リスクにありながらも「健康獲得を可能にするファクター」があることを見いだし、このファクターを活性化して健康を保持増進させようとする考え方である。
近年わが国で強調されている「生きる力」に近い概念である。
アントノフスキーは 、この 「生きる力」を調和の感覚(Sense of Coherence,以下「SOC」という)と呼んだ。
SOCは、開発途上の概念であるが、今までにないポジティブなとらえ方が特徴であり、オタワ憲章のヘルスプロモーションにも近い概念として世界的にも注目を集めている。
アントノフスキーは次のように述べている。
「1970年,私は医療社会学者としての仕事の根源的な転換点となったきわめて重要な経験をした。(中略)1939年には、16歳から25歳だった女性たちに、何気なく強制収容所にいたかどうかという単純なイエス/ノーの質問を行った。
(中略)精神的に健康な女性は、対照群が51%であるのに対して、収容所群は29%であった。
そのとき、51%と29%の差が非常に大きいことに注目するのではなく、強制収容所生存者の29%が良好な精神的健康を保っているという調査結果に注目し、その意味を検討することにした(身体的健康度においても同様の結果であった)。
彼女たちは想像を絶する程の地獄を体験し、その後何年も戦争難民として過ごし、人生を再建しようとした国ではさらに3度の戦争を体験した。
それでもなお彼女たちは十分な健康状態にあった。このことは,私にとっては驚くべき経験であった。この経験が私を意識的に、1979年にHealth, Stress,and Copingにおいて正式に発表したサリュートジェネシスモデルと名づけたものを練り上げる道を歩ませることになったのである。」
<健康生成論 サリュートジェネシス とその意義>
健康生成論は、疾病生成論の対語である。
サリュートは「有益な」あるいは「健康回復によい」という意味で、ジェネシスは「起源、発生、創始」と訳されている。
この理論は、病気につながる要因を特定することに焦点を当てていた従来の病理思考とは違い、なぜ人々は健康でいられるのかという健康の起源に焦点を当てた健康生成思考をとる、健康を維持、増進させる要因に着目した考え方である。この「より健康な方向への心身の改善や変化を促す要因」これが健康要因である。
アントノフスキーの著作は、世界的な広がりを見せ、今ではその実証的研究が幾何級数的に報告されていると言われている。
今まで健康を阻害する要因を追求しようとしてきた健康観に対し、健康生成論は全く逆の発想で、健康でいられるのはなぜかを問い、それを高める要因に注目している点は、新しい視点であり、アントノフスキーの偉大な功績であるといえる。
<健康-病気の連続体モデル>
従来、病気か健康かの明確な線引きが行われてきた。
これに対し、アントノフスキーは、「健康-病気の連続体」モデルを提唱する。彼のいう「連続体」とは,完全な健康と完全な病気という拮抗状態のうちで流動していることを意味している。
健康生成の立場が問うのは、ある人がある時点でこの連続体のどこに位置しているのか、どのようなファクターがその人を健康軸へと押しやるのか、ということである。
ストレスは病的なもの、すなわち人間にとって悪であると一般的にみなされている。しかし、同じストレスを受けても健康を害する人と健康を保っている人が存在する。ストレス自体はなんら病的なものでなく、主体の側の緊張処理によって病的にも中立的にも、あるいは健康増進にもつながる。
だから、健康獲得にとって重要なのは、偏在的なストレスの回避や撲滅という「健康」概念に関する一考察課題に終始するだけでなく、ストレスとそれを引きおこす緊張の処理の質をどう高めるかなのである。
そこで次に課題になるのが、人々を健康軸へと押し上げる健康増進的な資源をどう強化するかである。
<一般的抵抗資源>
「一般的抵抗資源」としてアントノフスキーがあげるのは、経済力、エゴ・ストレングス,文化の安定度、社会的支援などである。「一般的抵抗資源」は,いわば生命体がストレスに対処するときの手段の数々である。しかし、手段が本当に役立つためには、それを使う生命体の側がある条件を満たしていなければならない。つまりある事柄が「一般的抵抗資源」として働く際に見られる共通のルールがあるという。アントノフスキーは,そのルールを「調和の感覚 (Sense of Coherence:SOC)」と名づけた。
<調和の感覚>
アントノフスキーによれば、SOCは次の3つの柱によって成り立っている。
1.「理解可能性」
SOCの認知的支柱である。
自分の環境で出会う出来事には秩序があり、予測可能だという確信を意味している。
2.「処理可能性」
SOCの行動的支柱である。
ストレスに適切に対処するための資源を自由に用いることができ、それによってうまく乗り越えることができるという確信を意味している。
3.「有意義さ」
SOCの情動的支柱である。
ストレスへの対処を有意義なものとして、また負担としてではなくチャレンジの対象としてとらえ、実際の対処行動へと人を乗り出させる動機づけを意味している。
内容的には自己と世界への基本的な信頼感だと要約できる。
この、SOCがスケール化されたことによって、健康生成論の実証的研究が可能になったといえ、きわめて重要な示唆であるといえる。
健康生成論と「健康」概念
健康生成論では「健康」を身体的、精神的に良好な状態としている。
SOCは、健康状態を悪化させるストレスの影響を緩衝し、その結果、健康状態を良好にすると考えられている。
さまざまなストレスに曝されながらも、なお健康を保っていられる人間が、生活主体レベルで持つ特性を最も重要な健康要因と考え、それをSOCとして概念化したのである。
SOCは、性別や文化を越えて成立する概念として、20ヵ国あまりで検討が行われた。
アントノフスキーの健康生成論は、疾病生成論を否定するものではなく、むしろ、従来の疾病生成論とともに、相互補完的に、車の両輪のように発展させられるべきものとして提案されたことに重要な視点がある。
心身の健康を阻害する要因を取り除くと同時に、促進する要因を高めるという両方からのアプローチの必要性を提言している。
このことから、この健康生成論を実証的に研究していく場合、SOCスケールだけでなく、他の健康指標、たとえば身体的、精神的、社会的健康度やQOL尺度を併用し、それぞれの関連性を検討しながらいかにして相互補完できるかを明らかにすることが求められる。